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第66話 もう一人の黒狼

Autor: なつめ
last update Data de publicação: 2026-09-05 06:54:26

旧祭壇へ降り始めた雪は、三人の間へ薄い膜を作るように積もっていった。崩れた石柱の向こうでは黒き森が静まり返り、遠くで枝から雪が落ちる音だけが聞こえる。レグナードは祭壇の端へ寄りかかったまま、首から下げた幼児用の銀首輪を指先で弄んでいた。ヴァルゼインは剣の柄へ手を置いているが抜かず、リュシエナも小刀を構えたまま距離を保っている。番拒みの薬が効いている今、ヴァルゼインの黒狼が何を感じているのかは分からない。それでも、男の横顔に浮かぶ警戒は目で見れば十分だった。

「証明しろ、と言ったな」

レグナードが笑みを残したまま外套の胸元を開いた。鎖の下、鎖骨から左胸へかけて、黒い痣のような紋が浮かんでいる。三本の爪を背負った黒狼、その上に欠けた月。王家の紋章とよく似ているが、墨でも焼印でもなく、皮膚の内側から滲み出したような色をしていた。

ヴァルゼインの目が細くなる。

「黒曜紋か」

「さすがに知っているか」

リュシエナは二人を見比べた。ヴァルゼインの身体にも同じものがあるのだろうかと一瞬考えたが、尋ねる必要はない。レグナードはその視線に気づいたらしく、紋を隠さず続けた。

「黒曜紋は、ノクスハルト王家
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  • 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ   第73話 レグナードの選んだ運命

    黒森の旧祭壇でヴァルゼインと別れた翌夜、レグナードは王都から北西へ二日ほど離れた古い狩猟館にいた。グレイヴァルが生きていた頃には王族の冬狩りに使われていた建物だが、反乱後に王家の所有記録から外され、今では街道図にも載っていない。暖炉には火が入っているものの、長年使われていなかった石壁には湿った冷気が染みつき、窓の外では細かな雪が森を白く埋めていた。レグナードは卓上へ広げた黒曜王国の地図を眺めながら、旧祭壇で見た銀狼の女の言葉を思い返していた。《私は連れてこられたのではありません。自分で来ました》あの一言だけが、妙に耳へ残っている。王の運命の番として守られ、黒曜城へ囲われている女だと思っていたが、実際のリュシエナは想像より扱いにくかった。ヴァルゼインの後ろへ隠れず、前へ出て庇わせることもせず、同じ位置へ立った。番拒みの薬まで飲み、それでも一緒に旧祭壇へ来たという話が嘘でなければ、月神殿から教えられてきた《銀狼と黒狼》の形とも少し違っている。扉が三度叩かれた。「入れ」現れたのは、白い祭服の上へ旅用の外套を羽織った男だった。年齢は四十を少し越えたほどで、月神殿の高位神官に共通する銀糸の帯を腰へ巻いている。名はセルディオ。月祠長オルディスの側近であり、レグナードが少年だった頃から何度も月神殿の意思を伝えてきた男でもあった。「レグナード殿下」その呼び方に、レグナードは片眉を上げた。「まだ殿下か。お前たちの話では、俺はいずれ王になるはずだっただろう」「王位を取り戻されるまでは、殿下でございます」「便利な言葉だな」セルディオは皮肉へ反応せず、卓上へ細長い箱を置いた。封は月神殿の白蝋で閉じられている。レグナードはすぐには触れず、椅子へ深く腰掛けたまま相手を見た。幼い頃から、こうだった。父グレイヴァルは正統な黒狼王になるはずだった。ガルディオンに奪われた。反乱ではなく、王位を取り戻す戦いだった。父を殺した王家は簒奪者であり、その血を継ぐヴァルゼインから王冠を奪い返すことこそ、息子であるレグナードの使命だ。物心がついた頃から。何度も。何度も。そう教えられた。母と逃げた村から村へ移り、名前を変えるたび、レグナードは自分が何者なのか分からなくなった。それでも夜になれば、母は首から外した幼児用の銀首輪を見せ、「これはあなたが王家の子だった証よ」と言った。

  • 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ   第72話 好きという言葉の前

    月祠長オルディス・メルカーンが黒曜王都へ入ったという報告を受け、ヴァルゼインとリュシエナは予定より早く城へ戻ることになった。先ほどまで市場の甘い焼き菓子や、子どもから渡された雪の狼について笑っていた空気は消え、少し先では護衛が周囲を警戒しながら道を開いている。それでも二人の歩幅だけは急ぎすぎず、城下から王宮へ続く坂道を並んで上っていた。オルディスが何のために来たのか、銀狼の封印についてどこまで認めるつもりなのか、考え始めれば聞きたいことはいくらでもある。それなのにリュシエナの胸には、先ほど川辺で過ごした静かな時間の余韻がまだ残っていた。ヴァルゼインも、すぐには政務の話をしなかった。王都へ入った月神殿一行については先行した伝令とセイグが情報を集めており、城へ戻るまでにできることは少ない。普段ならその短い時間すら使って警備配置や面会順を考え始めそうな男が、今日は何度か口を開きかけては閉じていた。共鳴を通して黒狼の気配が僅かに揺れるのを感じても、リュシエナはそこから答えを読み取ろうとはしなかった。七日間、獣魂に頼らず相手を見ることを覚えたからこそ、今もヴァルゼイン自身が言葉にするまで待ちたいと思えた。王宮の外壁が見え始めた頃、ヴァルゼインが不意に足を緩めた。「リュシエナ」「はい」呼ばれて横を見ると、暗い金色の瞳がまっすぐこちらへ向けられていた。戦況を確認する時とも、監査の判断を求める時とも違う視線だった。何かを決めさせるような圧力はない。それでも、これから尋ねられることが軽い話ではないのだと分かり、リュシエナも自然に歩みを少し緩めた。「俺をどう思っている」あまりにも直接的だった。リュシエナは言葉を失った。「……急ですね」「そうだな」「何か理由があるのですか」「ある」ヴァルゼインはそこで一度前を向いた。雪を踏む靴音が二人分、一定の間隔で続く。少し離れた護衛たちは会話が聞こえない距離を保っており、城門までの道には他の通行人もいなかった。「昨日、お前が俺とまた城下へ来たいと言った」「言いました」「今日も、会えば嬉しいと思った」リュシエナが目を瞬く。「それは……共鳴で分かったのですか」「違う」即答だった。「顔を見た」胸の奥が少し熱くなる。「俺も、同じだった」ヴァルゼインは淡々と続ける。「それで、自分が何を望んでいるのかを考えた」

  • 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ   第71話 黒狼王の休息日

    ヴァルゼインに休日がないことへ気づいたのは、リュシエナが王宮の冬季薬糧配給記録と、王付き厨房の食材使用記録を照合していた時だった。本来なら、王の食事そのものを監査する必要はない。けれど冬至祭の暗殺未遂以降、王へ出される食材と薬については、異常な増減がないかだけ定期的に確認することになっていた。その途中、厨房側の帳簿へ残された食事の受領時刻が不自然に偏っていることへ気づいた。朝食が昼近くまで手つかずの日、昼食と夕食をまとめて取った日、夜半に冷えた食事だけを運ばせた日が、あまりにも多い。「これ、いつからですか」リュシエナが帳簿を持ったまま尋ねると、厨房を預かる老女は困ったように眉を下げた。「陛下が即位されてから、ずっとあんなものですよ。食べることを忘れる、寝ることを忘れる、休むよう申し上げれば仕事が残っていると仰る。先代の頃から仕えておりますが、あれほど扱いにくい王様も珍しいです」即位してから。十八歳で王位を継いだ。ヴァルゼインは現在二十八歳だから、十年。リュシエナは帳簿を閉じた。その日の午後、王の執務予定表まで確認して、さらに眉間へ皺を寄せることになった。評議会、軍務報告、司法裁可、各領からの請願、外交書簡、夜間の警備確認。その間に訓練と食事を無理に挟み、深夜にも翌日の資料へ目を通す。休息として記載された日はあるものの、その欄には決まって別の仕事が書き足されていた。完全に政務から離れた日は、少なくとも過去一年間には一日もない。リュシエナは予定表を抱えて、そのまま王の執務室へ向かった。「休んでください」開口一番そう言われ、ヴァルゼインは書類から顔を上げた。「何だ」「休んでください」「聞こえている」「では休んでください」ヴァルゼインは一度、目の前の書類へ視線を落とした。「必要ない」「必要です」「監査官の権限外だ」予想していた答えだった。リュシエナは持ってきた帳簿を机へ置いた。「では、薬糧監査官として申し上げます」ヴァルゼインの眉が僅かに動く。「睡眠不足と不規則な食事による判断能力低下は、王宮全体の運営上の危険です。陛下が判断を誤れば、薬糧配給にも影響します」「無理がある」「ありません」「ある」「ネルーヴァ様にも確認しました」そこで初めて、ヴァルゼインが完全に筆を止めた。扉の近くで資料を整理していたセイグが、

  • 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ   第70話 番になる前に

    共鳴が戻った翌朝、リュシエナは目を覚ますより先に、遠くにいる黒狼の気配を感じ取った。西棟のさらに奥、王の私室ではなく執務区画の方角に、低く安定した熱がある。七日間、それがなくても一日を過ごせることを知ったはずなのに、戻った気配を見つけただけで胸の奥の銀狼が嬉しそうに身を起こした。リュシエナ自身も、少しだけ口元が緩むのを止めなかった。以前なら、この反応が自分のものなのか獣魂のものなのかを考えるだけで不安になった。けれど番拒みの薬が効いていた七日間、銀狼が静かでもヴァルゼインのことを考え、会えば嬉しくなり、彼の言葉を聞きたいと思った。その事実はもう消えない。共鳴が戻った今、二つの気持ちが同じ方向を向いているからといって、それを疑い続ける必要はないのだと少しずつ分かり始めていた。午前の仕事を終えた頃、王付きの侍従が短い書面を持ってきた。内容は面会の申し入れで、場所はネルーヴァの治療室に隣接する小応接室と指定されている。文末には《身体と獣魂に関する話をしたい。ネルーヴァにも同席を頼んだ》とあり、リュシエナは何を話すつもりなのかおおよその見当がついた。指定された時刻に応接室へ入ると、ヴァルゼインはすでに窓側の椅子へ座っていた。ネルーヴァは卓上へ三冊の古い記録を並べ、いつものように面倒そうな顔をしている。共鳴が戻ったせいで、部屋へ入った瞬間に黒狼が銀狼へ意識を向けたことまで分かったが、ヴァルゼイン本人は立ち上がらず、リュシエナが自分で席を選ぶのを待った。「話とは何でしょう」向かいへ座って尋ねると、ヴァルゼインは遠回しにせず答えた。「番契を結ぶつもりはあるか」リュシエナはすぐには答えなかった。黒狼がその言葉へ強く反応し、胸の奥の銀狼も一瞬で身を乗り出したのが分かる。互いの獣魂だけなら、答えは最初から決まっているのだろう。近づきたい、結びたい、相手を自分の番として確かな形へしたいという欲求が、共鳴を通して鮮明に伝わってくる。それでもヴァルゼインは、何も促さなかった。「これは求婚ですか」「違う」「王命でも?」「違う」「番だから当然に結ぶものだと?」「それも違う」そこでリュシエナはようやく息を吐いた。聞かれているのは承諾だけではない。拒否も、保留も含めて、自分で答えを出すための確認なのだと分かった。「結んだら、何が変わりますか」ヴァルゼインの視線がネル

  • 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ   第69話 七日目の終わり

    《番拒み》を飲んでから七日目の朝、リュシエナは目を覚ますと同時に、自分の胸へ手を当てた。まだ静かだった。銀狼は確かにそこにいるが、ヴァルゼインへ伸びていた共鳴だけは薄い膜の向こうへ隠れたままで、彼が王宮のどこにいるのかも、眠っているのか起きているのかも分からない。七日前にはその空白が胸を抉るように感じられたのに、今はもう、この静けさの中で自分の感情を探すことにも慣れていた。会えなくても一日は過ごせるし、共鳴がなくても仕事はできる。それでも、今朝最初に考えたのが彼のことだった事実を、リュシエナはもう否定しなかった。午前中、ネルーヴァの診察を受けると、治療師は薬瓶と脈拍記録を見比べながら眉を寄せた。「今日の夕刻から夜にかけて、ほぼ確実に切れるわ」「時間までは分からないのですか」「体格と獣魂の強さで差が出るもの。あなたは完全変身したばかりで銀狼も強いから、普通の例をそのまま当てはめられない」ネルーヴァは記録を閉じると、今度は少し厳しい目を向けた。「だから、戻る瞬間だけ二人を分ける」リュシエナは思わず顔を上げる。「会わない方がいいのですか」「会うなとは言ってない。戻る瞬間に隣へ置かないだけ」薬によって七日間弱められていた共鳴が一気に戻れば、銀狼も黒狼も反動で強く相手を求める可能性がある。完全変身後のリュシエナは以前より獣魂との境界が薄く、ヴァルゼインもまた黒狼の欲求を抑え続けている。その二頭を目の前へ置いた状態で共鳴だけを突然戻せば、理性より先に身体が動く危険があると説明された。「別々の部屋で待って、戻ったことを自分で認識する。それから、会いたいなら出ればいい」ネルーヴァの言葉へ、リュシエナは静かに頷いた。「陛下も?」「同じ説明をしたわ」「何と?」「分かった、ですって。いつも通り」少しだけ笑いそうになる。姿を見なくても、その返事だけは想像できた。午後になると、王宮西側にある二つの静養室が用意された。長い回廊の両端近くに位置し、互いの部屋は扉を開けても直接見えない。間には人の歩幅で五十歩以上あり、ネルーヴァと数人の治療師が中央付近で待機することになった。扉には鍵を掛けない。獣魂を閉じ込められたと感じさせないためであり、出るかどうかも本人たちへ委ねられていた。部屋へ入る前、リュシエナは回廊の反対側を見た。ヴァルゼインはもう自分の部屋へ

  • 月を持たない娘は、黒き森で牙を研ぐ   第68話 銀狼と黒狼の古い盟約

    王家文書庫で見つかった《銀狼が再び生まれれば、黒狼王家の封じられた契約が開く》という一文は、その翌日から調査の中心になった。ガルディオンが月神殿へ銀狼の封印を黙認した時代より、さらに古い記録であり、ヴァルゼインが生まれる前どころか、先王自身がまだ幼かった頃に書かれた報告書だった。問題は、その文中にある《封じられた契約》が何を指すのか、現在の王家文書官ですら即答できなかったことだった。法的な契約を示す文書なら索引に残っているはずなのに、その名に対応する記録が見当たらない。「王家の契約なら、なぜ索引にないのですか」リュシエナが尋ねると、古文書官は困ったように白い眉を寄せた。「契約という語が、現在使われている法的な意味とは限りません。古代語では、盟約、誓約、祭祀、共同統治まで同じ語で記される場合があります」「つまり、名前から探しても見つからない」セイグが言うと、古文書官は頷いた。「ああ。関連する時代を広げるしかない」それからさらに二日、王家文書庫だけでなく、旧祭祀記録、黒曜城建設以前の群れの記録、王都地下神殿から移された石板の写しまで調べることになった。リュシエナは朝から夜まで机へ向かい、銀狼、白銀、月狼、鎮魂、共鳴という語が出るものを一つずつ拾った。ヴァルゼインも王務の合間に加わり、セイグとエルグラドが年代と出所を整理する。古文書は現在の文字と形が違ううえ、同じものを指す言葉も時代ごとに変わるため、わずかな記述を辿るだけでも何冊もの記録を照合しなければならなかった。三日目の午後、最初に見つけたのは王家の記録ではなく、現在の王都より北にあった古い集落から移された石板の写しだった。文字は摩耗し、半分ほど欠けていたが、中央には二頭の狼が向かい合う図が残されている。一頭は黒、もう一頭は銀で、その間には二つの月が刻まれていた。片方の月が欠け、もう片方が満ちる形は、現在の黒曜王家にも月神殿にも残っていない意匠だった。「双月」リュシエナが小さく読むと、古文書官が隣から頷いた。「《双月盟約》です」その名を口にした瞬間、胸の奥の銀狼がはっきり反応した。番拒みの薬がまだわずかに効いているため、ヴァルゼインの黒狼の気配は薄い。それでも銀狼自身が、知らないはずの言葉へ耳を立てるように意識を向けた。懐かしいものを聞いた時のような反応に、リュシエナは胸へ手を当てた。「知

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